前回紹介した小飼さん本の指南にあった「
シンプル題名の著書に当たり多し」を試してみようと、題名が6文字以内の岩波新書数冊を適当に

(汗)ピックアップ。
昔100円で買って段ボールの底で眠っていた

のも含め、普段なら絶対手に取らないような本ばかりだったんですが、
これがなかなかの知的エキサイティング体験でした。今日はその中から1冊ご紹介。
今日ご紹介する『ことばと国家』、ふと巻末を見ると、発行が1981年で手元の1冊はなんと
41刷!おおお、古典的名著なんじゃないですか、これ?
読み進めてみると、数々の歴史的事例を交えた分析が実にシャープです。
堅めの文章
が逆にいい塩梅に理解を促進させてくれます。
ソシュールが「民族をつくるものは言葉である」と説いたのは有名ですが、著者はこれを引いて「
言語をつくるものは国家である」と喝破してみせます。
そもそも言葉は話されなければならないもので、文字は二次的に付け加えられたものにすぎないと筆者は様々な事例を通じて説明します。そして、その
大きな目的は社会階級の保持であったと。
例えば、中世ヨーロッパにおいて書かれる唯一の言葉であったラテン語-日常言語の外にあるこの特別な言葉を学ぶ時間が許されたのは社会最上層のみだったという事例が引かれています。
この支配的地位を保つには、この文字の術が複雑であればあるほど都合がよく、文字そのものの習得に時間がかかればなおいっそう好ましかったのだ、というのが言語学的切り口での文化論です。
また筆者は、こうも述べています。
「文法」はことばそのものに必要なのではなく、国歌とその付属設備である学校と教師のために要求されるのである。文法はその本性において、ことばの外に立ってことばを支配する道具である。ことばは現実であるのに対して、文法は観念であり規範である。
卒業式のシーズンになると、毎年国歌斉唱や日の丸問題が取り上げられますが、本質はこのことばの問題と同じですよね。
あと非常に興味深かったのが、以下の一節。
したがって、書き言葉の術は、知識と情報の階級的独占が必要なところでは、いつでも頑固に保守された。漢字やかなづかいという単なる手段の改変がその都度激しい抵抗に出会うのも、慣れや有用性の観点ではなく、文字術の秘儀性に身をゆだねてしまった感覚の根がまだ生き残っているからである。
おおー、なんだか心当たりありませんか?「
いまの若い子は言葉を知らない」

なんてノリ。
相手の知らないことを自分が知っている優位感を保とうとする-これは人間の防衛本能なのかもしれず、全否定する気には正直なれなかったりします。
一方で、
水面下に沈んだ自己防衛意識によって、新しい価値や文化創造の芽を摘むようなことはあってはいけないなという思いも新たにしました。

こんな切り口の分析もあるんだなあ

と、読み終わってただただ感心。応用範囲は相当広そうです。
やはり古典的名著は、あーだこーだいうまえに読まないといけませんね。

ともあれ、まったく期待せずに手に取った新書でこれだけ学んでしまうなんて、
新書がベスト (小飼弾)
にも感謝です。
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